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@koiuhffvs かずね
@seshiapple むか!w真剣なのに( ;´Д`)まぁあたし外見は処女っぽいらしいから!(бвб)!純粋にみえて実わっていうギャップもえ!
この数字がいかに現実と乖離しているかは、電力会社自身が原発の設置許可申請の時に、経産省の電源開発調整審議会(現・電源開発分科会)に提出した資料を見ればよくわかる。それによると、日本の主要な原発の1kWh当たりの発電原価見積もりは、「泊1号機17.9円、女川1号機16.98円、柏崎刈羽5号機19.71円、浜岡3号機18.7円、大飯3号機14.22円、玄海3号機14.7円」となっている。5.3円なんて原発はどこにも存在しない。
 比較的原価見積もりが高い原発を列挙したが、1kWh当たりのコストが10円を切っている原発が2つだけある。大飯4号機の8.91円と、玄海2号機の6.86円である。それを考慮しても、どこをどうやったら、日本の原発の発電原価が5.3円などと言えるのか。
 きっと原子力利権ムラの提灯持ちたちは、こう言うに違いない。「電調審への申請数字は、初年度の原価見込みか、16年の法定耐用年数運転を前提にしたもので、40年耐用のモデル試算は別物で、比較しても意味はない」と。
今回の『星を追う子ども』という作品のアイデアを考え始めたのは3年近く前で、その頃僕は1年くらいロンドンに滞在していて、そこでこの話を書き始めたんです。滞在中にクリスチャンの友達も増えてきて、時々誘われて週末の教会に見学に行ったりしてたんですが、クリスチャンの彼らはすごく熱心に聖書を読んでいたので、ある時「聖書はあなたたちにとって、どういうものなの?」と聞いたんです。すると、「私にとってのsalvation(救済、救いの意)である」と答えが返ってきたんですね。そのsalvationという単語を聞いて、そのときロンドンで読んでいた英訳された村上春樹のある小説を思い出しました。「A Window」、日本のタイトルだと「バート・バカラックはお好き?」という短編で、「カンガルー日和」という短編集の中の一遍です(「村上春樹全作品1979~1989 5」収録の際「窓」に改題)。その中で、30代半ばの主婦と大学生の青年が手紙のやり取りをしていて、もうこれから先そのやり取りができないとなった時に、その女性が青年に向かって「あなたと手紙をやり取りすることは私にとってのsalvationでした」と言うんです。思いがけずsalvationという単語が出てきたので印象深かったのですが、ある人にとっては聖書が救いだったり、ある人にとっては手紙を返すという、そんな何でもないことが救いなんだなと思ったんです。そんなふうに記憶を辿っていくと、僕は学生の頃、クリスチャンの人が聖書を読んでそこから救いを求めるのと同じように、漫画やアニメや小説を繰り返し読んできたような気がします。
新海:メッセージは色々あるんですが、共同体的な心地よさみたいなものを単純にいいものとして描くわけではないとか、自分の中のテーマはありました。ひとつ本当にプライベートな僕自身の目標でいえば、例えば元気をなくして死にたい思いを抱えている人がいたとして、でもこの映画を観たあとに「やっぱり死ぬのはやめよう、もう少し生きてみよう」と、そう思ってもらえる映画にしたかったんですね。そういう効果を人々に及ぼす、具体的に効く作品を作りたいという気持ちが大きかったです。
この物語の中では、皆で力を合わせてラスボスを倒すようなことはしないですし、世界の危機を救うという話でもないんです。そういう話にしたつもりでしたので、「力を合わせて何かを乗りきっていく話だよ」という紹介に、僕はちょっと違和感を持ったんです。
今お話したような、「孤独と向き合うということを肯定的に描く」というテーマで物語を作るのであれば、ジブリや日本アニメーションなどの、日本のアニメーションの伝統的な、普遍的で入りやすい絵柄でそのテーマをくるんで、作品を放つ必要があると思ったんですね。そのような形をとることで、このようなメッセージを必要としている人たちのもとにこの作品を届けられるのではないかと思ったんです。それが実際に誰のもとにどういう形で届いているのかというのは、実感としてはまだ分からないんですけど、そのような気持ちで作った作品です。
新作を公開したら逆に、ここ最近『秒速、秒速』って言われることが多くて(笑)、結構色々思い出してたんです。僕、大学で国文学を勉強していたんですが、そこで柄谷行人の「日本近代文学の起源」という古典みたいな有名な本なんですけど、「風景というのはとりたてて描写するようなものではなかったけど、背景を文章で描写するっていうのは発明だった」、「風景を発見したことで人は内面を発見して、内面の発見と風景の発見を可能にしたのは文体の確立だった」とあったんですね。昔は人はしゃべっている言葉と書いている言葉が違ったので、しゃべっている言葉で文章を書くことになったことと、風景の発見と内面の発見がパラレルに起こったという、僕は大学時代にこれを読んで、こんな風に世の中を捉えることができるんだと。例えば恋愛は明治期に海外から輸入されたみたいな言い方もされますが、そんな風に普段僕たちが当たり前だと思っている風景だとか恋愛っていうものには起源があるということを大学時代の勉強で改めて知って、すごく感銘を受けたことが今の自分のアニメーション表現につながっていると思います。
現実世界はもう少し複雑で、場合によっては残酷で豊かなものであると思うんですよね。必ずしも“ロマンチックラブ”の成就だけが人生の幸せではないと。それをアニメーションでまっすぐ描くようなタイプの作品を作りたいと考えていたんですよ。
ですから『ほしのこえ』でもノボルとミカコは結ばれないし、『雲のむこう』でもサユリとヒロキは結ばれない、『秒速』でもタカキとアカリは結ばれないんですね。でも、結ばれないんだけど、だから不幸ということではなく、「“ロマンチックラブ”らしきものをつかみかけた彼らだけど、それを手に入れることはできなかったけれども、でもその先に出て歩いて行こう」という作品をずっと作りたいと思っていて、ずっとそれを目標にやってきたんです。でも作品を出すと、さっきちょっと言ったことともつながりますが、お客様がどういう風に解釈するかはこちらがコントロールできることではなくて、例えば『秒速』なんかは僕がこの4年間で感じたのは、逆に「“ロマンチックラブ”は素晴らしいものなんだ」というふうに言っている作品、ととらえられる機会も半分くらいあったんじゃないかと思ったんですよ。それはそれでいいと思っているんですけど。